神の愛でブン殴られた話(映画『ロード・オブ・ザ・リング』の衝撃)

 J.R.R.トールキン教授の作品世界へ足を踏み入れる際の心構えとして「山にたとえるとエベレスト級で奥の深い世界だが、大切なのはまず進むこと。とにかく大きいので登るルートがみんな違っても大丈夫。」と教えていただいた事を、最近になって思い出しました。

教授の作品世界。中つ国物語群を読み解き理解を深めるため、1ファンである私も折に触れては様々な角度からのアプローチを試みていますが、そんな我が身をふり返ると、どうも遭難しているように思えます。

そして初めて映画『ロード・オブ・ザ・リング』をみた時から、山にたとえると登山口へたどり着くか着かないかの時点で、すでに遭難していたのだと気づかされました。



この話は、教授の世界へ触れるきっかけであった映画『ロード・オブ・ザ・リング』を鑑賞した際に受けた精神的な衝撃についてです。

私は元からファンタジー全般へ好感を持っており、どうしようもなく中つ国のお話が大好きになってしまったタイプの人間です。

ですが今回の遭難話は、10年プロテスタント系の学校へ通い、勤勉なたちでは無かったにしろ毎日の礼拝に参加し、道徳の替わりに聖書の授業を受けていた人間(日本の仏教徒)が、真に「キリスト教の影響を受けている西洋の作品」と出会い、その表現にひすら感服するしかなかった話になります。

稚拙ではありますが私個人の宗教観を含む内容となっておりますので、そのあたりをご容赦いただけるようでしたら、どうぞお付き合い願います。

※これより先は映画『ロード・オブ・ザ・リング』のネタバレを含みます

賛美歌90番

ここも神の御国なれば

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讃美歌90番じゃねぇか!

いきなり映画の出だしからです。ホビット庄のテーマ、日本語版サントラで「ホビット庄の社会秩序」と題されている劇中音楽の印象的なフレーズは讃美歌90番*1からの流用でビックリしました。

なんせ学校の外で讃美歌を耳にするのはクリスマスの時期*2を除くと、知人の教会式の結婚式くらいしか機会がないものです。

それで、つい「ここ(ホビット庄)は神の御国なのかよ!」と思ってしまいましたが、この時の私に知識が無かっただけで、中つ国は太古の地球であるという設定のためホビット庄も神の御国なのです。まじか。*3


ミカ書5章2節

ベツレヘム、エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである。

この旧約聖書の言葉はクリスマス前になるとアホほど繰り返し聞かされるフレーズの内の1つで、一番小さいものから救世主が出るよって予言です。

旧約(ユダヤ教)の物語は厳密には新約(キリスト教)の物語と繋がっていないので、キリスト教では都合よく「イスラエルの支配者になる者」をイコール「救世主イエス」と解釈しています。

「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し」と言ったのは徳川家康ですが、実際にそれを行ったのがイエスとフロドです。*4

エルロンド会議でフロドが指輪の担い手として声をあげガンダルフの瞳がゆれるシーンをみたとき、このフレーズが私の頭に浮かびました。

映画をみていて聖書のフレーズが頭に浮かぶ体験なんて、それまでの人生の中で1度もなかったのに。

学校で聖書を教わる際に「キリスト教圏の文化はキリスト教の影響の上にある、聖書を学ぶと西洋の作品に深く触れるようになれる。」と教師に聞かされた事があります。

それを私は、天使やサンタクロースやイエスが出てきたり、登場人物が神に祈りを捧げたり、悔い改めたり、聖書のフレーズを口に出したり、死んで生き返って*5救世主になったり…等の表面的な部分で表されている作品しか知らなかったため、理解していなかったのです。


マタイによる福音書7章13節

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

たぶん最初に讃美歌90番を意識した時点で、私の脳は物語のキリスト教的な側面へ過敏になっていたように思います。

キリス・ウンゴルを登るフロド一行と黒門をくぐる東夷の軍*6をみて、新約聖書のこの言葉を思い出しました。

ここはもう説明する必要もない位に、そのまま教義が物語になってる!ってシーンです。

何故キリスト教の教義が物語の中にあるのか、それは敬虔なカトリックである教授が太古の地球であるアルダも神の愛で満ちていて(キリスト教はまだ形成されていないが*7)神の的を得た正しい行いをする者へ祝福は授けられると考えたのではないでしょうか。

中つ国の物語は多神教的と捉える方がメジャーな考えのような気がしますが、少なくともプロテスタント側からカトリックをみると天使とか聖人とかもて囃してて多神教的だしな~みたいに私は考えてます。


ルカによる福音書10章37節

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

これは善きサマリア人のたとえのオチにあたる一節で、隣人愛は行動でもって示すべきだとイエスが説いています。

映画では同じようにフロドがガンダルフに「情け」を説かれ、ゴラムへ対しあわれみをかけるようになります。

そして、ご存知のとおりビルボとフロドの二人の「情け」が最後に世界を救うのです。*8



中つ国の物語は様々な神話や伝承を原典としたエッセンスがキャラクターやストーリーに盛り込まれていますが、それらと聖書から抽出されたエッセンスは少し違う層にあるように思えます。

それは前者が目にすればわかる名称や状況などの設定であるのに対して、後者が登場人物の行いによって示される教義だからなのでしょう。



映画をみて世界観や物語を楽しみながらもキリスト教の教えを思い起こされた私は「できれば気づきたくなかった。知るにしても、もっと他の神話や伝承の原典に詳しくなってから向き合いたかった。」と思いました。だって明らかに、そっちの方が正しいルートに見えます。そもそも聖書は神学専攻とかじゃなくて、学校でちょっと習っただけなのです。

少なくとも、このエントリーだって『トールキンによる福音書』とか読んでから書くべきだったのになって思います。

登山道具も揃えずに素人がエベレスト級の山に行くとどうなるのか、考えるのも嫌です。

でも私には、目の前に見えるのが茂みでもそのまま前に進むしか選択肢はありませんでした。好きなものを知りたい気持ちに、ただの怠惰が勝てるわけがないのですから。

*1:"This Is My Father's World"イギリス古曲の"Terra Beata"でもある

*2:色んな商業施設から106番111番112番あたりが流れるので、口では「リア充爆発しろ」と言っていても「また讃美歌かよポップス流せよ」なのが本心

*3:「ここも神の御国なのかよ!」って思わずにおれません

*4:今イエスと家康の語感が似ている事に気づいたので、機会があったら親父ギャグを考えたいです

*5:ガンダルフはコレやってましたね

*6:この後に東夷たちへ訪れる運命を思うと、心が痛みます

*7:キリスト教は神と人との間に旧約と新約の契約が結ばれてから成り立った宗教であるため

*8:それでもゴラムに生きていて欲しかった